楽焼の起源は安土・桃山時代までさかのぼり当時の帰化人阿米夜(飴也・飴屋とも)が作陶したものとされ、楽焼と呼ばれるようになったのは千利休に見出された楽家初代長次郎が豊臣秀吉の聚楽第内で阿米夜の作陶に類したものを制作しはじめは聚楽焼と呼ばれていたものが、二代常慶が楽の印を賜り以降次第に楽焼と呼ばれるようになった。
主にロクロを使わず手捻り技法で黒茶碗、赤茶碗を中心に制作し現在まで受け継がれてきているが楽家には釉薬の調合比率や造形の技法などを伝承せず「独自に作風を確立するべし」と家訓があり基本技術のみ先代などに指導を受け、その後は独自に研究し制作している為その当時の当代にしか出せない発色・形成があり現代日本茶碗の評価では最高峰に位置する。
長い楽焼の歴史の中で楽家代々制作のものを本窯、弟子または一族の作品を脇楽(窯)と分類されまた楽焼の製法が比較的簡単な為、全国各地の数寄者(好者)により模倣品が大量に出回る結果となった。
「楽」の贋物の歴史についても古くそういったものに「楽」の印を施され素人目には判別のつかない状態となっている。
また全国各地には楽焼風の焼き物として吉向焼、豊楽焼、常楽焼、
隅田川焼
、飯野焼、湊焼、破笠焼、乾也焼、
金華山焼
、三国焼、玉川焼、不二見焼、久楽焼、萩山焼、難波焼、小松焼、友月焼、などが残り楽焼が日本茶陶・陶磁文化に与えた影響は大きい。
*落款・印は各歴代楽参照。
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