因久山焼

因久山焼
Inkyuzan yaki

陶磁窯

( )〜 ( )


別名:久能寺焼
明和年間(18世紀中)頃、鳥取県八頭郡に京都の清水六兵衛を招き、築窯する。後、鳥取池田藩窯として保護され、文化年間には信楽陶工勘蔵 勘助親子により信楽や期の技法が導入される。
それにより因久山焼独自の作風がなされた。
その後、明治期以降には急速に減退し、大正14年頃に窯を改良し、事業を大きく拡大する。
作物は茶道具、花器、菓子器などの多くの作品がを焼く。

素地は、やや赤みがかった泥地。

〔陶 印〕
枠有枠無「因久山」 「○」 尾崎家「勘」 瓢箪枠「因久山」 「○◇」 など


落 款 ・ 印 章