長崎亀山にて1804年ごろ、長崎奉行であった肥田豊後守頼常の命により開窯したもので大神甚五兵衛と称す陶工を中心として生産、また、1854年に京都の三浦乾也が長崎に造船技術遊学に訪れた際に製陶を手伝うなどしたが、次第に衰退の一途をたどり廃窯、1859年奉行岡部駿河守長常の頃に再興を目指したが、経営難となりその後すぐに完全廃窯となった。
製品は伊万里風の染付磁器で龍紋や人物図、山水図など地元の画家津田南竹を絵付師に起用した物が多く、幕府への献上品、国内各藩への販売、中国への輸出などを主要目的とされた。
〔陶 印〕
染付にて「亀山」「亀山製」「亀」「甕山」など
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