徳川御三家紀伊藩十代藩主徳川治宝の御庭焼で西浜御殿偕楽園に窯があったのでその名がつく。
1827年に治宝に招集された永楽保全、仁阿弥道八、楽旦入と同地の陶人を中心として制作されており特色としては光沢の強い紫、青、黄、緑といった釉薬を使っての交趾写しが主で永楽保全の手法が基本とされている(以降永楽家はその技法をお家芸として使用)。
図案としては「壽」の文字紋が意匠として使われている作品が多い。
そのほかにも現存は少ないが唐津写しや乾山写しなどの京焼風など各地の窯の写し物、青磁、染付けなどの作品が確認されている。
一般的に偕楽園焼(製)とされる物の製作期間は徳川治宝が京都の陶工を招集した1827年〜治宝が没する1852年まででありそれ以降は廃窯となる、したがってこの期間に制作された物が真作となるが明治初期に和歌山の陶工和田右衛門という者が新たに偕楽園窯を企画して製陶を行った為、また昭和期に贋作も出回った為、区別がつきにくいが後者に関しては印のほかに作品の経年感が新しすぎるようだと注意が必要となる。
〔窯 印〕
「偕楽園製」など
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