当初は1800年頃から岡山藩筆頭家来であった伊木家の御庭焼として築かれた窯で当初は同藩内の備前焼に良く似た陶器を製作させていたが、備前焼窯元からの苦情(営業妨害の訴え)などから1818年頃に今吉吉蔵なる陶工が中心となって虫明池の奥に池奥窯を築き、また京都から仁阿弥道八を作陶指導に招いて京焼風の作陶を模索しているがこの窯は1842年に廃窯となる。
その後、伊木三猿斎の時代になり1847年には初代清風与平を招いて間口に窯を築かせて本格的に京焼風の虫明窯を開始、52年ごろには宮川長造、63年には二代与平、68年には初代宮川香山をそれぞれ指導者として招き現地の陶工に京焼の技法を学ばせている。
作風は薄手の京焼写が中心となるが、清風父子が作陶したものは染付、赤絵、三島手などが残り、宮川父子のものは仁清写などを残している、現地の代表的な陶工としては宮川香山の弟子であった森香洲、久本葛尾などがおり御庭焼廃窯後も民窯として制作を続け、現在では黒井家(一楽、千左、慶雲)により伝統が受け継がれている。
〔陶 印〕
小判印「むしあけ」「虫明」など
|