遠洲七窯のひとつ
近江国(滋賀県)膳所の焼物で本阿弥光悦、小堀遠州らと親交の厚かった膳所城主菅沼織部定芳(1587−1643)が御用窯として創始したという説やそれ以前にすでに焼かれていたという説など由来など不明な部分が多い。
定芳の後を小堀遠洲の弟子であった石川忠総(1583−1650)が城主となり勢田(瀬田)の大江に窯を築き陶工太郎右衛門の一族に茶陶のみを制作させる(これが遠洲七窯となった所以とされている)、1600年代中ごろ以降に忠総が伊勢亀山に移封した後は本田家が城主を勤め幕末まで焼かせていたが明治維新時に廃窯となる。
しかし、1919(大正8)年に同地の数寄者岩崎健三と当時日本画の大家となっていた山元春挙が廃絶を惜しんで窯を再興してその工房に「陽炎園」と名付けて現在は伝統に基づいた茶陶を展開して千家からの信頼も厚く宗匠の好み物をよく制作している。
また、古窯に瀬田焼、大江焼、国分焼、雀ヶ谷焼がある。
瀬田焼(勢田焼)
、大江焼、国分焼は瀬戸の陶法を用いた鉄釉を特色とした上品な茶陶であり特に茶入れに優作を残しており現在の陽炎園製もそれに習っているが、幕末の頃には上記の物と平行して交趾釉を用いた制作も雀ヶ谷焼としてのこり膳所焼の一種として知られている
〔落款名〕〔陶 印〕
「陽炎園」小判印「せ〃」など
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