作家资料
BIOGRAPHY【出身地・師系】江戸(東京都)出身【略歴・作風など】幕府の下級武士の家に生まれたが幼少期より多賀谷常、また15歳の頃に当時の江戸六歌仙の一人内山賀邸に学び漢詩家を目指し18歳の頃には儒者として大家を成していた松崎観海に入門。しかしこの松崎観海が柔軟な考え方を持ち、面白い詩文と独創性を尊重していた為その影響で南畝もそうした文を書くようになり狂歌・狂詩的な詩文を執筆。翌19歳の頃には「寝惚先生文集」を出版、これが好評を得て次々と洒落やユーモアで当時の世間を風刺した作品を出版した。また1794(寛政6)年46歳の頃より文芸活動を停止し幕府の人材登用試験に受験、登用され幕府の能史として大坂や長崎に赴任。しかしその後、蜀山人と雅号を変えて再び晩年まで狂言、狂歌を執筆したとされる。また、公認の代筆者が南畝の弟子の亀屋文宝(自称2代蜀山人)で晩年の蜀山人より文宝を代筆に用いていたとされ現存が多数あるのもそのためとされている。筆跡は文宝の方がまとまりすぎて綺麗なのに対し本家の南畝は能筆とはいえないような雑で狂歌家らしい棒線のような書体が特徴、また号欄のような多数の筆号を用いておりその号によって意図的に書体を変えていたとされる。*尚、「大田」が正確で「太田」ではないので注意する。〔印名〕「大田覃字子相」「杏園」「杏華園」(「杏花園」)「大田覃」(「大田西早」)「南畝」「覃之印」(「西早之印」)「子相」「蜀山」「蜀山人」「南極老人」「家在牛門西弐里」「詩言志」「風行水与」「大田文庫」など〔市場評価〕★〔美年鑑評価〕150万