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作家资料

BIOGRAPHY

【出身地・師系】石川県(加賀藩)/【所属・任】加賀前田藩お召掛金工師【略歴詳細】元祖源次好栄は武士を捨て白銀師(しろがねし)として後藤光乗に入門。慶長4(1609)年後藤家が加賀藩前田家お召金工となり水野家も職方として金沢に移住。その子、源七、源六の二人がその後の継承するようになる初代源六(好房)、1624(寛永元)〜1687(貞享4)水野家祖源次の次男で18歳で分家し独立。前田利常より五人扶持を下され白銀職御用として職す。正保3には高岡町の武土地の一角に邸地を賜り別家を構え「白銀職頭取職務代行」を命じられる。82歳で没す。2代源六(照喜)、生年不詳〜1737(元文2)初代没後家督相続し加賀前田藩御用師として職務。74歳で没。3代源六(多光まさみつ)、1724(享保9)〜1760(宝暦10)通称は源六郎。1737(元文2)家名相続。宝暦元には京都北野天満宮へ奉納の宝剣金具を制作。同年には京都神護寺寄進の太刀制作に携わる。59歳にて没。4代源六(光政)、1739〜1800(寛政12)旧姓は大川端。多光門下で水野家の養子となる。父没年の宝暦10に家名相続。精巧匠で白銀師ながら鉄地も扱い建築金具まで手掛けた。61歳で没す。5代源六(光益)1765〜1816(文化13)3代光政の門人。10代藩主治脩、11代斉廣の時代21年間の御用を勤め51歳で没す。6代源六(光則)1786〜1838(天保9)源蔵の養嗣子で6代を継ぐ。11代斉廣、12代斉泰にに仕え、十一月、五十二歳にて没す。7代源六(光和)1800〜1866(慶応2)旧姓を高尾源吾といい、光忠の養嗣子。武器の御用を多数勤る。安政3年には軍御用増加に伴い白銀御用棟取役に付いた。7月、66歳にて没す。8代源六(光春)旧姓を谷源三といい養嗣子。歴代が勤めてきた御用を多数勤め、廃藩後は明治5年(1872)、大蔵省から三千円の加賀象眼花瓶を受注する。翌年にはウィーン博にて加賀象眼を出品、優勝牌を受賞。また明治10年(1877)に金沢に銅器会社が創設、光春は頭取の一人として参画する。さらに初代から定住してきた高岡町の邸宅を売却し明治28年58歳にて没す。9代源六(光美)1867〜1938(昭和13)本名は石王次三郎。水野家の養嗣子となり明治15年(1882)に京都府画学校(現京都市立芸術大学)に留学。19年卒業後は石川県専門学校等の教師に勤務。また明治28(1895)に家督相続するも模造品や戦乱により長期低落期に入るも宮内省に十数点の製品を納める。銅像制作工場も築造し同業の発展に尽力した。3月71歳にて没す。10代源六(光晶)朗1886〜1965(昭和40)――埼玉県出身で旧姓は堀内、初名を虎次郎、光朗といった。金沢工業学校に通い養子嗣子となる。明治38年(1905)のベルギー万博に出品し名誉賞を受賞。さらに彫刻家を目指し東京美術大学(現東京芸術大学)の彫刻科に進学。在学中の明治42(1909)文展にて入選。諸事情により中退するもその後も海外で数度受賞を果たし、大正7(1918)金沢卯辰山日蓮宗善妙寺の日蓮上人銅像を建立。その後大正末期から昭和にかけて金沢市金属工芸協同組合長を勤める。79歳にて没す。〔印名〕「源六」「源六造」など〔市場評価〕★★〔美年鑑評価〕

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SEALS & SIGNATURES

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