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BIOGRAPHY

【出身地・師系】紀州出身【所属・任】海軍操練所のち亀山社中(海援隊)のち兵庫県知事、駐米公使、農商務大臣、外務大臣【主な受賞】正二位・勲一等・伯爵【略歴・作風など】天保15年7月7日、紀州藩士伊達宗広の六男として生まれる。伊達小次郎、陸奥陽之助とし、国学者だった父の影響で徳川家であった紀州藩の中でも得意な尊皇攘夷思想を持った。安政5、江戸の安井息軒に師事、後、水本成美に学び、坂本龍馬、桂小五郎・伊藤俊輔などと交友を持つ。文久3年には、勝海舟の神戸海軍操練所に入所、その後慶応3年に坂本龍馬の海援隊に加わり、龍馬暗殺まで終始行動を共にするようになる。龍馬暗殺事件後には海陸援隊士その他とともに、紀州藩士三浦休太郎を暗殺のため天満屋事件にて新選組達と騒動を起こす。維新後は外国事務局御用係、兵庫県知事、神奈川県令(1871年)、地租改正局長などを歴任が、その後薩長藩閥政府に憤激し、官を辞す。元老院議官歴任後、西南戦争の際、政府転覆[2]を謀っていた土佐の林有造・大江卓らと連絡を取り合っていたために、除族のうえ禁錮5年の刑を受け投獄される。明治16年1月、特赦によって出獄を許され、伊藤博文の勧めでヨーロッパに留学。明治19年2月帰国後、外務省に出仕。明治21、駐米公使を歴任、日本最初の平等条約である日墨修好通商条約を締結させる。帰国後は農商務大臣に就任。1890年第1回衆議院議員総選挙に出馬し初当選を果たし、1期を務めた。その後、伊藤内閣では外務大臣に就任[4]。日英通商航海条約を締結[5]。同年8月、子爵を叙爵。日清戦争時も外務大臣として尽力し下関条約を調印。戦争を日本にとって有利な条件で終結させた、その功により、伯爵に陞爵する。明治30年1897年8月24日、肺結核のため東京西ヶ原の自宅で死去。享年53歳。墓〔印名〕〔市場評価〕★

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