作家资料
BIOGRAPHY東京浅草出身。師、2代清雲斎、小泉寛司、西田正秋。甲戌会員、日本人形作家協会代表、日展審査員、日本工芸会正会員。彩象会主催。人間国宝内定を辞退。江戸期より御所人形、有職雛人形などが製作されてきたがそれ等は主に愛玩人形あるいは、祭事物であった。が、昭和11年の帝展に「村童」を出品し後の人間国宝の2代平田郷陽、野口明豊、堀柳女、鹿児島寿蔵、羽仁春水と共に入賞したことを機に美術工芸としての位置を取得。その後、第2回新文展(昭13)で「砂丘に遊ぶ子供」が特選を受賞。その後も日展、日本伝統工芸展に出品を重ね、昭和29年の文化財保護法により翌30年、人形として初の重要無形文化財(御所人形)を打診されるが「肩書きや地位より質と作家の自由」を理由に内定を白紙に(辞退)する。野口は代々東京江戸人形師「2代清雲斎」の家の5人兄弟の長男として生まれたが15歳(明44)の時、祖父「初代(清五郎)」(63歳)と父「2代(彦太郎)」(37歳)を同時に亡くし若くしてその家業を継ぐ事になる。すぐに父彦太郎の弟弟子でもあった小泉寛司に師事し、その後独立。後、佐久間こう(王+光)甫、猪谷春峰ら当時伝統人形にとらわれず芸術や先の創作人形を考える5人で五芸会(ごうんかい)を結成、伝統を踏まえつつ日本画のデッサンやお互いの技術を研磨し伝統を受けとめながらも当時の人形界の独創性を自らかんがみ、独自に伝統人形の製作を開始する。昭和9年には脱会し人形のプロアマ混同の研究会「甲戌会」を歌人である鹿児島寿蔵、画家の堀柳女、写真家の野口三四呂などと結成、さらに戦後には日展、日本工芸会に出品。その後、審査員、理事などを務め戦後〜現在の人形芸術の基礎を築き、上記作家等と共に日本人形界発展に尽力した一人として現在の市場評価以上のものとして技術は基より従来の静的な御所人形に動を入れた功績は高く評価される。尚、弟に同じ御所人形師の春彦(本名、徳三郎。明38〜昭5)、子息には現在彫刻家、行動美術協会会員の野口鎮氏、門下に鈴木柳蔵(現鈴木人形会長)、鈴木賢一、林敏郎、山本勝夫(現人形師)など。〔印名〕「光彦」など〔市場評価〕★★