作家资料
BIOGRAPHY【略歴・作風など】人形師初代永徳(雄七)(文政12〜明治41)は京都丹波国亀山藩(現在の亀岡市)の人で剣術指南役、山川多仲の7男として生まれ、京都に登り「次郎左衛門雛」で有名な11代岡田次郎左衛門の下で修行を重ねその後、左大臣勝子姫(後の照憲皇太后)の注文により市松人形を献上した。安政4年頃に江戸支店を任されるが、明治初期(2年頃)に岡田家江戸屋敷を拝領し、独立して東京日本橋十軒店にて開業する。その際、手放された市松人形の代わりに再び照憲皇太后に注文を受け、その際に号を「永徳」から「永徳斎」と賜る(賛否有)。以降宮中御用や財閥関係、上流階級から大いに受注を得た。初代没後、2代(初代の長男)慶次郎(安政5〜昭和3)が、2代没後3代(初代の次男)保次郎(慶応元〜昭和16)と家業を守ったが4代岩雄(2代慶次郎の子)(明治38〜現在)の時代に人形界の激動期と、昭和14年施行の価格等統制令も重なりさすがの有職人形師も受注が落ちた。また3代保次郎の渡米〜帰国を期に日本のマネキン、とりわけ東京マネキンの開発に先駆的な役割を果たし4代もそれに研究着手し、伝統的な人形と次世代のマネキンでの創業で一時職人も100人を超える規模になり一時注文も追いつけない忙しさにもなったが、その後太平洋戦争の戦況極まり職人などの徴兵、物資の不足、贅沢品の不買などと3代の死去さらに昭和20年の東京大空襲で店舗が消失したのに伴い、一時的に廃業する。戦後ようやく再建したが昭和28年(昭和33年の説も有)に時代背景もあり廃業することとなった。尚、4代岩雄氏は正式には最後まで4代を襲名せず、戦時〜戦後の厳しい情勢の中、この名門を切り盛りした。各代の作品を見ても気品高い顔立ちと精巧無比な創造性が永徳斎の特長とも言えるが、初代は江戸期の顔立ちを継承、2代は明治盛期の気品ある顔立ちと様相、3代は大正期東玉などの幼い顔立ちと初〜2代を継承する写実性ある人形を特長としている。また初代は雛人形を中心に節句物を得意としたのに対し、2代以降は武者人形に秀作が多い。〔市場評価〕★★